ぐうぜんをかんがえるひろしまっ

June 05, 2011

なくすをてにいれる

というわけで、ひとつきぶりの広島への帰路です。
東京では、予期せぬかたちでたくさんの人にお世話になりました。
なんかこう、さびしい気分でいっぱいなので、ブログを書こうと思い立ったわけです。
テーマは、じゃあ、「ジャズ」で。


昨日、とある先輩のお誘いでジャズのライブ(って言うのかな、お店で演奏がある感じ)に行ってきました。
生のジャズは久しぶりで、といってもそんな書き方をすると、一時期はしょっちゅう行ってたのか、ということになりますが、そういうわけではなく。大学のジャズ研究会の演奏を機会があって何回か聞いた、って程度です。
特別音楽に好きなジャンルというのがあるわけではない自分なのですが、それでもジャズは好きな部類のひとつだったりしています。
身体を揺らす、くらいのノリになるのが好きなのかもしれないですね。

生の演奏というのは、うまい下手に関わらず、いやある程度は関わるかもしれませんが、独特の緊張感と現実感のなさとが好きで、そういった場に足を運ぶ機会があれば大事にしたいと思っているのですが、その一方でそういった場が少し苦手だったりもします。
正確には、その時間はとても楽しめるのですが、その楽しい時間が、「ああ、もう終わっちゃうな」とか、そういうことを途中で考えてさびしくなってしまうことが多くて、それはとてももったいないことだなあとは思うのですが、結果的にそうなっちゃうのでしょうがない、ってことになるのです。
生演奏に限らず、楽しい時間が終わってしまうことがとてもさびしくて、そんなさびしい思いをするくらいならとっとと終わってしまえ!みたいな非論理的なことも実は考えてしまうタイプなのです。
そういったいろいろな「楽しいこと」の中でも、特にジャズの生演奏を聴いてるときが、そういうことを考える割合が多い気がする、ってことを昨日のライブで考えたんですよね。
なんでだろう、と考えてもそれは主観的なことなのでうまく言えないのですが(ただ、別にジャズは即興演奏が主だから二度と同じ演奏には出会えないから、とかそういう理由じゃないと思います。)
たとえば、歌詞のある歌であれば、あるフレーズを覚えておくことで今後の糧にできるかもしれない、とも思うのですが、比較的ジャズって淡々とした感じが多いから、覚えておくべき「ココだ!」ってのが素人目には実はあんまり分からなくて(ちょっと分かる人からみればあるんでしょうけど)、
その流れるような音楽をそもそも楽しむものなんじゃないかと思ったりもするわけで、そうするとそれは流れていくことが宿命付けられているので、やはり自分の手元には残らないもの、という切なさにつながるのではないか、と暫定的な感じを抱いています。
名前くらい分かってればまた違うかもしれない、ということで、今回は演目を一緒に聴いてた人にメモしてもらい、また今度同じ曲をやってるのを見かけたら聴いてみるなりして、流れるものをとどめてみたいと思います。

今回の東京ですが、久しぶりにほんとにたくさんの人に会えて、自分自身東北に行ったりしていていろんな複雑なことを考えていたときだったので、根本的に変わらない人たちをみて、とても心強い思いをしました。
東京に「帰ってきたなー」って気分になって、その「帰ってきた」先は実際東京という場所にあったのではなく、そこにいる人達にあったのだなと思いました。
そう考えると、帰るところは人の数だけある、と思える一方で、人は常に動いているものだから、帰るところは常に用意されているとも限らないし、同じところに帰れることはないわけです。
なんかセンチメンタルな感じのことを言っちゃってますが、それって、生きていて時間が過ぎていくだけで、取り戻せないものは常に生まれていて、でもそれはもともともっていたものを「失った」のではなくって、取り戻せないものを「手に入れた」、というような、なんかそういうことのほうが近いんじゃないか、とかも思うわけです。
相変わらず昔からの人と会うと、過ぎていった時間を懐かしむことが多いわけですが、まあ過ぎていったものが手に入らないのは当たり前として、でもそれをあきらめというよりもそれもひとつの手に入れたもの、として昇華させられるような心持ち、が生まれつつあるような気がする、ということで、
なんかジャズの話から全然離れましたけど、そういう流れるものと留まるものについて考えたりしたわけでした。


sasuraoh at 21:40│Comments(0)TrackBack(0) めざせ、エッセイ王! 

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